mottanse1203のブログ

考古学を中心に、哲学、思想、文学等に興味を広げていければと思います。読んだ本の要約や解釈、紹介など、アウトプット用に開設しました。学術的に至らない点、多々あるかと思いますので、ご教授いただけたら幸いです。

八ヶ岳美術館 連続講座第二回 鈴木希帆「縄文土器への美のまなざし」

講師:鈴木希帆さん

新宿区立漱石山房記念館(学芸員)

専門:日本美術史。主に、考古遺物が日本美術通史の中でどのような経緯で語られるようになったのか。

 
江戸時代後期
滝沢馬琴などの好事家たちの間で、文政7年(1824)5月から翌年11月まで、毎月開催されていた古物愛好の会の短期会を記録した『耽奇漫録』の中で、「屋代弘賢の蔵で亀ヶ岡出土の頗る花瓶を見た」といった記述がある、これが亀ヶ岡土器とされ、古くから鑑賞の対象となっていたといえる。
江戸時代後期の旅行家、博物学者である菅江真澄の寛政10年(1798)の日記『追柯呂能通度(ツガロノツト)』の中で、随筆は、津軽地方の鱈漁と、黒石付近出土の土器についての考察の中で、亀ヶ岡と山内地域の土器の作風を比較することも行なっている。
文政4年(1821)の『菅江真澄遊覧記』「新古祝甕品類之圖(しんこいわいべひんるいのず)」にも見事な亀ヶ岡の注口土器が出土地域、所蔵者の情報を伴って、ここでは蝦夷人の作ではないかと考察している。こうしたことから、江戸時代の縄文土器に対する造形的な関心を捉えることができる。
縄文土器が鑑賞の対象であったという証拠として、縄文土器の内側に金箔を貼って茶道具に仕立てた例がある。(例えば東北大学博物館所蔵、亀ヶ岡出土の変形工字文の高坏)この土器は、津軽藩主が茶器として利用したという伝承がある。そのほかの類例は、関西大学大英博物館にも所属されているものなどがある。大英博物館の円筒筒形土器は、小シーボルトがヨーロッパに持ち帰った資料の一部ではないかとされている。
 

江戸時代〜明治時代
1868〜1912 殖産公共政策でのフィラデルフィア万博において、焼き物の標本として出展された中に縄文土器が含まれている。
その後、1880 オーガスタスフランクス(大英博物館キュレーター)博覧会の解説書のJapanese potteryで、亀ヶ岡土器を紀元前640年という年代が記されている。偶然と言えども縄文晩期に相当する。「日本人によると、日本の土器作りの起源は、日本史がはじまる紀元前660年よりも前のはるか遠い時代から始まっており、その時代の茶器に相当する資料がこの土器である。加えてこの紀元前640年という製作年は憶測によってあてがわれたに過ぎない。これらの壺は時より勾玉を収納していた古代の墓から見つかるため、勾玉壺、あるいは、precious cuell base として知られる。」と書かれている。
明治時代初期の古美術研究家の稲川式胤の説を参考にしたと思われる形跡がある。ここで、これらの土器の製作者まで言及されており、ここで「アイノと関係のする現代の日本人に先立つ民族の作」と推測されている。そのようなことが指摘される背景には、これが書かれた前年にエドワード.S.モースや、ハインリヒ.フォン.シーボルトによる日本先住民のプレアイヌ説が指摘されているため、当時の日本人の縄文土器の認識に影響を与えていたといえる。
その亀ヶ岡土器は、その後ロンドンのV&Aミュージアム(当時、サウスケンジントンミュージアム)に寄贈されて現在でも展示されている。
最も古い日本美術通史の文献としては、明治23年岡倉天心による体系的な美術史講義の講義録である。そこでは、推古時代から扱っており、それ以前の時代は日本美術史で扱う対象ではなかった。
岡倉天心は、1897年(明治30年)パリ万博に際した明治政府の要請で、日本初の日本美術史の本である『日本帝国美術歴史』の編纂主任となるが、その後、岡倉は美術学校騒動で職責を追われ、怪文書を流したたされる東京美術学校の図案科教師である福地復一で出版される。


明治時代〜大正時代
明治から大正の博覧会の時代では、工芸品の輸出政策に伴って、日本国内では工芸品の図案集が多く作られ、縄文土器を用いた図案集も作られている。同じ頃、東京帝国大学理科大学人類学教室の画工に始まり考古学者となった大野雲外(1863-1938)の『模様集 石器時代第一、第二』(1895)に始まる三図案集が出版され、土器の文様は鮮やかな色面構成の作品に変貌した。そこで取り上げている土器も亀ヶ岡などの晩期のものが多くある。
それまでの考古学は人種論争が中心であったが、明治19年創刊の『人類学雑誌』では、「縄文土器造形」という項目が追加されて、土器の文様研究が進んだことも背景として考えられ、その後、考古学の分野では、縄文土器の編年研究が展開される前触れとして捉えられる。
このように、様式的視点による考古学上の編年研究の発展、また文様集や装丁に見られる当時の美術出版の興隆が挙げられ、それを受けて縄文土器に対する平面的な造形観が促進されていったと推測される。
この文様という二次元での造形把握から半世紀後の岡本による三次元の全体造形としての把握に至るまでには空間への関心、さらにはモダニズムを経た前衛芸術家の視点が必要であった。

 

感想

日本美術史の中で、岡本太郎以前から濱田耕作などにより、何度か考古遺物が取り上げられていたことは初見だった。これまで、考古学の分野から考古遺物を美的な視点で考えることがなされて来なかったというのが私の認識だったが、逆に美術の人間から全くと言っていいほど考古資料に関心が寄せられていたかったという鈴木さんの話から、考えが転換された。しかしながら、イニシアティブのしての岡本の存在はやはり大きいと思う。

岡本以前と以後を、2次元から3次元へ、静的なデザインから動的な空間認識へといった鈴木さんの捉え方や、考古の人間では聞き慣れない、新鮮な言語感覚が面白かった。

 

八ヶ岳美術館は、「造形」を主題とする印象があり、FUJITAとも交友のあった清水多喜示の彫刻と縄文中期の豪華絢爛な土器が同空間に配置されている。全く異なる要素の両者が対面するも調和、何故か違和感を感じさせない。

また、ドーム状の天井が連結する独特な建築スタイルで、開放感のある空間も楽しめるし、かわいい。

ぜひ一度、足を運んでみてください。


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