mottanse1203のブログ

考古学を中心に、哲学、思想、文学等に興味を広げていければと思います。読んだ本の要約や解釈、紹介など、アウトプット用に開設しました。学術的に至らない点、多々あるかと思いますので、ご教授いただけたら幸いです。

〈日本旧石器学会第17回研究発表 〉2日目パネルディスカッション

本会のテーマである「理論と実践」、主に旧石器研究に対する理論の不在を主張するものであったが、土やモノを見るセンス、個別的な遺跡研究こそが重要であると指摘する阿子島氏の言葉には、遺物から離れて思想や哲学へ浮遊し始めた最近の私の姿勢には重く受け止められ、日本の揺るぎない伝統的な考古学のあり方を体現しているように感じられた訳で…ちょっと怖かった。

あと、私の勉強不足で、溝口氏の多様する社会学系?の用語が脳ミソまで届かず、なんかすごいね!としか言いようがない状況でして、自らの無知さを肌感覚で実感させられた一日となりました。

 

簡単に諸氏の話まとめ(雑)

中尾先生→理論をなくして実践は盲目


溝口先生→理論的達成、学問の先端の認識の不在、研究史の理論的プラットフォームの不在


安斎先生→考古学ジャーナルの近藤義郎ラインに着目してきた。クラークのイコノミックベーシス→1つの方向性を持った勉強会が身につくと感じる。私の経験から言うと勉強会が1番

『現代考古学辞典 』次世代の研究領域を提示、しかし、事例研究が示されなかったことで、反響が無かった。

『理論考古学の実践』呼びかけに応じず、ニヒリズムに陥る。来年、概論書を刊行予定。

ニヒリズムから脱却できればいいな笑。

 


阿子島氏 閉会のことば←100%文字起こし(ここだけは頑張った)

 

1980年代の埋蔵文化財の保護体制と資料が充実してきた安斎先生のいう資料の蓄積期にパラダイム転換を強く主張した。80年代〜90年代になり資料が蓄積してくると、今度は旧来考えていた強固な理論考古学の方法論の枠組みの中に入れ込んでいって編年を整備する細分をする、正式編年や集団表象をその枠組みの中に入れて考えるということが、旧石器時代のみならずあらゆる時代区分の研究で実際に起きたわけであります。

鈴木さんの刃部磨製石斧の考え方や、五十嵐さんの砂川モデル、この辺の従来の方法論の中に新資料を当てはめることが続いてきたが、それを見直していくという、そういう考え方の1つなんだろうと思って意を強くしました。

また、80〜90年代の期間を科学哲学的に考えるとトーマス・クーンの言うパラダイム論の中に通常科学という考え方があります。ノーマルサイエンスですね。そう言う中ではこういう科学者集団のなかでは、こういう方法で積み上げていくといいんだという時期がある程度続くと、今度はそれに対してアノマリー、すなわち実際にその枠組みには事実としては合わないんだけれども、旧来の方法の枠組みの中にそれを取り込んで入れていこうということが起こる。そして、うまくいかなくなってくるとそのパラダイムの転換が起きるという古典的な議論。もう50年ぐらい前になりますが、そういう議論があったのであります。

文化間の問題。ビンフォードさんのいうところのノーマティブなカルチャーパラダイム、すなわち基準的な文化間というのに、かなり近い感じを受けるのであります。ビンフォードさんの60年代のニューアーケオロジーを回想した中で、このことは明記しています。ニューアーケオロジーというのは、文化パラダイムでいうと、反ノーマティブな運動で自分たちは少なくともいたのだが、そのあと大きく主流と言われる人たちは変わってしまったということを書いています。で、日本考古学の強固なパラダイムもややそういう文化間が強いと考えています。源流を辿ると『原始学序論』杉原壮介先生の原因者とか、それにおける遺物の変異性、そいういうことにまで辿られることなのかもしれません。

今度は日本考古学が今後どのように進んでいけば良いのかということでありますが、これについては、多様な考え方を寛容に受け入れて、多様性を許容する平行パラダイムで当面進んで行った方が実はいいのではないかと感じました。安斎先生が、社会生態学、構造変動論と言った新たなパラダイムを20年以上前に提唱されて、それを展開しているわけですが、そのような多様な考え方を寛容に受け入れて、それを持って事実の蓄積された内容を対照させていくべきであろうと思います。

安斎先生も自身のパーソナルヒストリーに触れましたので私も述べさせていただきますと、私自身は、ミドルレンジセオリーの追求ということに向かいました。1980年以降ことですが具体的には石器の使用痕分析、すなわち実験考古学の分野、エクスペリメンタルアーケオロジーであります。ビンフォードさんたちはミドルレンジセオリーの中でもエスノアーケオロジー、民族考古学の方に集中されて追求されたわけでございます。当時、1980年代日本の旧石器では、特に関東地方を中心に大規模な調査が繰り返され、資料の充実の一途を辿っておりました。そのような時に石器の形態の意味、石器の形が意味すること、すなわち機能研究ですね。これをしっかり考えれば何か、当時の日本考古学の進む先に突破口があるかもしれない、あるのではないかと考えたのであります。その時に丁度芹沢長介先生は東北大学の石器使用痕チームを立ち上げられて、タイミングも良かったのですが、そこで私が辿ってきたところはビンフォードさんのそう言った考古資料の事実と一般理論、ジェネラスセオリーを繋いでいくための中間の理論、すなわち考古学独自の理論であると同時にミドルレンジセオリーは方法論でもあると思います。そういった中間の方法論が非常に不足しているということを学んできたわけです。で、そもそもアメリカに渡りました時は、この蓄積されている膨大な量の報告書の山、これをですね、これをどのように今後活用していけばいいのだろうがというなんか、かなり重いことを考えてUNMに行ったということをかなり懐かしく思い出されますが、五十嵐ジャンヌさんの方で、クロアグーランの方法論のうち、動物壁画を集成した業績についてのコメントで、この構造主義というものはなかなか実証、検証し難いというコメントがございました。これは構造主義というものは本質的にそういう宿命を持っていることのようです。しかしながら、ルロア・グーランの構造論的な洞窟壁画の分析は2000を超えるような多数の事例の集成から考えられているもの、すなわち、ほかのそれに先立ついくつかの仮説と違う点は、まずルロア・グーランは目録の作成をきちんと行い、それを進めていった後に構造主義的な理解に辿り着いたというわけです。五十嵐さんと違う話をしているわけでなくて、考古学の面から見るとそういうことになるわけであります。その後のパンスバーン遺跡の非常に精密な実証的な点取り発掘などが行われ、これを機会にフランスでは進むべき方向という認識が変わったわけです。こういった中で、ルロアグーランは、一方では洞窟壁画の構造論的な解釈を行なっていたということを私には大変示唆的に思うのであります。

使用痕研究はそのように展開しまして、かなり定着しました。そして、これをミドルレンジセオリーの一つとして位置付けについつは、「グローバルに見るとそれはむしろ特殊なことではないか、世界的にはそうは思われていない」という2年ほど前の本学会の使用痕のセッションの時にも山田翔さんがグローバルな経験をもとに指摘をされました。それは確かに当たっていると思います。しかしながら、考古学全体の幼名期からメソトロジー、セオリーというまとまった理論体系の中で考えると確実に使用痕分析はミドルレンジセオリーとして位置付けて良いのであります。これは確信しております。ですから、20年以上にもわたって東北大学で学生たちにかなり熱っぽく教えて続けてきたので、そういった考えが根付いてきたと思って、貢献できたとという気になって、来年退職を迎えるわけです。

科学哲学の分野において、遺物主義ということを非常に厳しく指摘されておりますが、これはやはり考古少年育ちの研究者としては反論が強くございまして、やはり長い時間、遺物をしっかり見るという経験は考古学の本質にとって極めて重要であります。遺跡の発掘調査についても同様であります。おそらく中尾さんが指摘されたいのは、実際の経験を積んでいる時に何を目標に何のためにやっているかという理論的背景も頭に少し入れながら実際にやっていこうということの少し厳しい言い方だと受け止めました。

理論と実証ということですが、やはり理論的な立場によって解釈は変わっていくわけです。理論な立場におきまして、事実としては見つかった遺跡遺物の解釈は変わっていくわけです。

しかしながら、個別の研究、個別の分析の中にこそ理論が存在しうるのであるということを訴えて終わりたいと思います。

 


要約

・理論考古学の背景

理論的なものと実証的なものが対立するようなイメージが潜在的にあった。二者択一というような考えもないですし、純粋論ということも考古学ではありえない。


・日本考古学の場合の特徴

①理論と実証が対立的に考えられることが潜在的にあった。

②資料が充実しているために、理論ということをイメージ的に考えなくても研究を進めていくことができる。

 

結論

理論と実践の二者択一はすべきでは無い。平行して考えていくべきである。

個別の研究、個別の分析の中にこそ理論が存在しうる。