mottanse1203のブログ

考古学を中心に、哲学、思想、文学等に興味を広げていければと思います。読んだ本の要約や解釈、紹介など、アウトプット用に開設しました。学術的に至らない点、多々あるかと思いますので、ご教授いただけたら幸いです。

執筆意図

昨年の夏季休暇、大学にアカデミックコンテストというものがあることを知った私は、休みの1週間を使い、ここ数年の間、どこかで構想していた訴えを半ばぶつけたかたちで書き上げて提出した。そうしたところ、この度ありがたいことに純文学部門において優秀賞を受け、公になる機会を得た。

私のいう奴隷とは、他でもなく主人公のことを言ったつもりである。ここで私は、「人間は、不条理に満ちたこの世界を他人のために生かされている」という自己矛盾を孕んでいるという人間社会の一側面を描き出すことを試みた。

そして、多く報道される自殺、そこに至るプロセスは、その場外からは何も分からない場合が多く、そのため、人物の内情を心理的描写によって描き出すことを念頭に置いた。

非才のため、まとまりのない文章になっている箇所も多々あるが、是非一読していただけたらとおもう。

 

↓こちらから

https://www.tais.ac.jp/_e-book/icho/icho23/ebook/mobilesafari/body_ms.html

浦戸諸島 桂島 活動記録

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〈これまでの概要〉

 本学の地域創生学部のH先生とD先生の両氏は、3.11の震災以降、復興支援活動として塩釜市桂島へ月に2回、学生を連れて島へフィールドワークに訪れてきた。島民のヒアリング調査でのニーズの把握からはじまり、地域学習の要素と絡めながら、地元の小中学生向けの地域教育プログラムを作成し、イベント事業なども行なってきている。

私は、歴史学科でありながら、昨年より社会教育主事関連の科目履修をきっかけに両先生方と運良くつながりをもたせていただき、月に一度は島に来て活動を行なっている。

桂島での震災復興として、ハード面は一通り完了したと言って良いが、島民の心の負担は未だに癒えていないように思う。

 

現状の課題

・白石廣造邸跡周辺の竹林の増加による遺跡の浸食。

・地元漁師(特に牡蠣漁師)の減少。(背景:高齢化と後継者不足)

・島民及び移住者の減少。(背景、松島は日本三景の一つとして自然環境保護の観点から新たに建物が建てられないことなどが挙げられる)

 

活動計画

・地域教育モデルの拡大

文化財等の案内板設置

・自然、歴史、文化、震災から現在などの要素を取り入れたパンフレットの作成

・桂島産牡蠣の周知など

 

展開

・地域教育と復興を織り交ぜた学生の教育活動や一般向けの観光事業を提供するNPOの立ち上げ。

 

今回の予定

20/03/02〜05 竹ボイラーの稼働、竹炭の製作実験、案内板設置、ヒアリング調査等。

 

03/02 東京から4時間 桂島本土到着。

民宿スターボードに宿泊。

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夕食は、刺身の盛り合わせと牡蠣の天ぷらなどをいただきながら一杯。

 

03/03 

6時に起床、釣り。

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午前中 竹ボイラーと竹炭作成

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竹ボイラーは、約30分の加熱で最高50度近くのお湯を流すことができ、十分に足湯を行えることが確認できた。

 

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↑白石鑛造邸跡 

解説

明治期のラッコ漁を中心行い、貿易の拠点となる。島内には「ボラ」と呼ばれる岩壁を四角に掘り込んだ貯蔵庫があり、当時は舐めしたラッコの皮を保管していたという。


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浸食の進む竹藪から適度な長さで竹を切り出します。
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ある程度燃やしたら水をかけて蓋をする。完成

 

竹炭は、畑の土壌改良に効果があるため、島の農家さんと共同で、提供していく方針。

竹の切り出しから、炭の作成まで1時間程で完了。作業工程と学習プログラムに組み込めることを確認した。

 

昼食 スターボードに戻り、カレー食べる。

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午後は、足湯再開&牡蠣の実食

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本番さながらに一汗流し、足湯しながら焼き牡蠣とアルコールを手に海を眺めながらいただくことが出来ました笑

 

今後の予定としては、案内板を島内に18ヶ所設置して行く予定です。

 

最後に鬼ケ浜の写真を。


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20/03/04

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本日も竹炭と竹ボイラーによる足湯を行い、午後からは雨が降ってきたため、看板立ては中止し、プレハブでBBQと焼酎しながら区長さんとお話をさせてもらった。

来年、東日本大震災から10年の節目を迎えることもあり、それに向けた取り組みを話し合うことができた。また、さりげない地元の方々のお話でも伝承による歴史文化などのコアなお話をお聞きすることができ、通時的な歴史ガイドパンフレットの構想が膨らむ。

チャート探しPart① 〜王滝村〜

取り組みの背景

はじめに結論を言ってしまうと、私は先史時代人の石器製作段階での加熱処理技術がチャート製の石材においても行われていたのではないかと考えている。

 

チャートとは、化学的にはほとんどシリカ(SiO2)からなり、鉱物学的には微細な石英の集合となっている堆積岩のことである。詳しくは、http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/miyamoto/ground/chert.htm

 

加熱処理とは、

緩やかに温度を上昇させて比較的低温(500℃以下)で岩石を熱し、再び徐々に冷やすことによって剥離に関する性質を改善するという加熱処理の技術である(御堂島1993)。

既に、氏の取り組みにより、玉髄製石器の製作段階における加熱処理技術は、弥生時代中期後半から少なくとも縄文時代草創期まで遡ることが指摘されている(御堂島 2017)。

八ヶ岳山麓周辺の先史時代遺跡から出土する石器には、黒曜石の他にも様々な石材が利用されており、中でもチャートや珪岩(接触変成作用を受けたチャート)の利用が多く見られる。海外の研究事例では、チャートの加熱による変成作用が確認されているが、日本国内での基礎的研究、及び実資料での発見は進んでいない。

そこで、第一段階の基礎的研究として、チャート製の剥片への加熱による変成作用(再結晶化現象)を検証するために、実験用の石材獲得、及び原産地推定のフィールド調査として、資料調査や考古館職員の助言などをもとに各地へ足を運ぶ取り組みをスタートした。

 

王滝村

第1回の今回、富士見町の某考古館の職員さんより情報をいただき、木曽郡王滝村へ行くことにした。ご教授ありがとうございました。

自宅の茅野市より片道2時間以上、御嶽山が一望できる有名な滝に到着。

ここは、剣ヶ峰から御嶽湖へ流れる大又川の中流域である。

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到着早々、歩道や河原などにチャートの岩脈が露出しており、川に崩れ落ちるポイントを発見した。

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しかしながら、石器製作の石材としては質がイマイチで、さらに30分ほど歩いて上流へ行くがチャートは全く発見でき無かったため、岩石の河川への流れ込みでは、上流のポイントだと推定。

気晴らしに滝に近づくと、足元にチビながら良質な油質チャート(珪岩)を発見したため、匂うなと思ったが…

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その後、鉄石英などもちらほらあるものの、石核になるような上ものは見つからず終了。結論としては、この流域のチャートは石材には適さないものが多いことが確認された。しかしながら、現代的な空間での解釈であり、当時の環境がそのまま保存されている訳ではないため一概にはそうとは言えない。

以後観光♪ 滝の裏側に岩陰があり、石像達が安置あれており神秘空間が広がる。しかし、そんなところの石を持ち帰ったためか、帰り道は、やけに身体が重く、何かついてきた模様。これから神秘体験が続かねばいいが…。

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終わりに

学術的に至らない点、また、チャートに関する情報などございましたら、ご教授いただけると幸いです。

今後とも、よろしくお願いします。

 

文献

御堂島 正 1993 「加熱処理による石器製作ー日本国内の事例と実験的研究ー」『考古学雑誌』79-2

御堂島 正 2017 「石器の加熱処理と小瀬ヶ沢洞窟の石器」『山本暉久先生古稀記念論集 二十一世紀考古学の現在』六一書房

八ヶ岳美術館 連続講座第二回 鈴木希帆「縄文土器への美のまなざし」

講師:鈴木希帆さん

新宿区立漱石山房記念館(学芸員)

専門:日本美術史。主に、考古遺物が日本美術通史の中でどのような経緯で語られるようになったのか。

 
江戸時代後期
滝沢馬琴などの好事家たちの間で、文政7年(1824)5月から翌年11月まで、毎月開催されていた古物愛好の会の短期会を記録した『耽奇漫録』の中で、「屋代弘賢の蔵で亀ヶ岡出土の頗る花瓶を見た」といった記述がある、これが亀ヶ岡土器とされ、古くから鑑賞の対象となっていたといえる。
江戸時代後期の旅行家、博物学者である菅江真澄の寛政10年(1798)の日記『追柯呂能通度(ツガロノツト)』の中で、随筆は、津軽地方の鱈漁と、黒石付近出土の土器についての考察の中で、亀ヶ岡と山内地域の土器の作風を比較することも行なっている。
文政4年(1821)の『菅江真澄遊覧記』「新古祝甕品類之圖(しんこいわいべひんるいのず)」にも見事な亀ヶ岡の注口土器が出土地域、所蔵者の情報を伴って、ここでは蝦夷人の作ではないかと考察している。こうしたことから、江戸時代の縄文土器に対する造形的な関心を捉えることができる。
縄文土器が鑑賞の対象であったという証拠として、縄文土器の内側に金箔を貼って茶道具に仕立てた例がある。(例えば東北大学博物館所蔵、亀ヶ岡出土の変形工字文の高坏)この土器は、津軽藩主が茶器として利用したという伝承がある。そのほかの類例は、関西大学大英博物館にも所属されているものなどがある。大英博物館の円筒筒形土器は、小シーボルトがヨーロッパに持ち帰った資料の一部ではないかとされている。
 

江戸時代〜明治時代
1868〜1912 殖産公共政策でのフィラデルフィア万博において、焼き物の標本として出展された中に縄文土器が含まれている。
その後、1880 オーガスタスフランクス(大英博物館キュレーター)博覧会の解説書のJapanese potteryで、亀ヶ岡土器を紀元前640年という年代が記されている。偶然と言えども縄文晩期に相当する。「日本人によると、日本の土器作りの起源は、日本史がはじまる紀元前660年よりも前のはるか遠い時代から始まっており、その時代の茶器に相当する資料がこの土器である。加えてこの紀元前640年という製作年は憶測によってあてがわれたに過ぎない。これらの壺は時より勾玉を収納していた古代の墓から見つかるため、勾玉壺、あるいは、precious cuell base として知られる。」と書かれている。
明治時代初期の古美術研究家の稲川式胤の説を参考にしたと思われる形跡がある。ここで、これらの土器の製作者まで言及されており、ここで「アイノと関係のする現代の日本人に先立つ民族の作」と推測されている。そのようなことが指摘される背景には、これが書かれた前年にエドワード.S.モースや、ハインリヒ.フォン.シーボルトによる日本先住民のプレアイヌ説が指摘されているため、当時の日本人の縄文土器の認識に影響を与えていたといえる。
その亀ヶ岡土器は、その後ロンドンのV&Aミュージアム(当時、サウスケンジントンミュージアム)に寄贈されて現在でも展示されている。
最も古い日本美術通史の文献としては、明治23年岡倉天心による体系的な美術史講義の講義録である。そこでは、推古時代から扱っており、それ以前の時代は日本美術史で扱う対象ではなかった。
岡倉天心は、1897年(明治30年)パリ万博に際した明治政府の要請で、日本初の日本美術史の本である『日本帝国美術歴史』の編纂主任となるが、その後、岡倉は美術学校騒動で職責を追われ、怪文書を流したたされる東京美術学校の図案科教師である福地復一で出版される。


明治時代〜大正時代
明治から大正の博覧会の時代では、工芸品の輸出政策に伴って、日本国内では工芸品の図案集が多く作られ、縄文土器を用いた図案集も作られている。同じ頃、東京帝国大学理科大学人類学教室の画工に始まり考古学者となった大野雲外(1863-1938)の『模様集 石器時代第一、第二』(1895)に始まる三図案集が出版され、土器の文様は鮮やかな色面構成の作品に変貌した。そこで取り上げている土器も亀ヶ岡などの晩期のものが多くある。
それまでの考古学は人種論争が中心であったが、明治19年創刊の『人類学雑誌』では、「縄文土器造形」という項目が追加されて、土器の文様研究が進んだことも背景として考えられ、その後、考古学の分野では、縄文土器の編年研究が展開される前触れとして捉えられる。
このように、様式的視点による考古学上の編年研究の発展、また文様集や装丁に見られる当時の美術出版の興隆が挙げられ、それを受けて縄文土器に対する平面的な造形観が促進されていったと推測される。
この文様という二次元での造形把握から半世紀後の岡本による三次元の全体造形としての把握に至るまでには空間への関心、さらにはモダニズムを経た前衛芸術家の視点が必要であった。

 

感想

日本美術史の中で、岡本太郎以前から濱田耕作などにより、何度か考古遺物が取り上げられていたことは初見だった。これまで、考古学の分野から考古遺物を美的な視点で考えることがなされて来なかったというのが私の認識だったが、逆に美術の人間から全くと言っていいほど考古資料に関心が寄せられていたかったという鈴木さんの話から、考えが転換された。しかしながら、イニシアティブのしての岡本の存在はやはり大きいと思う。

岡本以前と以後を、2次元から3次元へ、静的なデザインから動的な空間認識へといった鈴木さんの捉え方や、考古の人間では聞き慣れない、新鮮な言語感覚が面白かった。

 

八ヶ岳美術館は、「造形」を主題とする印象があり、FUJITAとも交友のあった清水多喜示の彫刻と縄文中期の豪華絢爛な土器が同空間に配置されている。全く異なる要素の両者が対面するも調和、何故か違和感を感じさせない。

また、ドーム状の天井が連結する独特な建築スタイルで、開放感のある空間も楽しめるし、かわいい。

ぜひ一度、足を運んでみてください。


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『理論考古学入門』安斎正人著

著者安斎は「理論考古学とは、これまでの思考の枠組みに縛られない、まったく"新しい考古学"創造の可能性を探るための、考古学における〈理論と実践の関係〉についての理論的考察である"。」という。

理論考古学の画期となったのは、1960〜70年代のアメリカ考古学の生態学的方法をとるルイス・ビンフォードとその一党と、イギリス考古学の情報論的方法をとるデイヴィッド・クラークと若手研究者による「ニューアーケオロジー」運動とその後のプロセス考古学の隆盛にあった。1980年代のイギリス考古学者ホダー の批判ー文化なきプロセス、個人なき社会システム、歴史なき適応変化、主体なき科学に対する批判ーであるポストプロセス考古学の台頭は、西洋社会における危機感の増大を反映していた〈ポストモダン〉運動を背景としていた。

そして安斎はこのような2者の台頭は、モノのからコトへの考古学への転換期と捉え、このような時代の流れの中で、未来の考古学研究の理論のあり方を思考する理論考古学は、主要な研究分野として確立されるべきであるという展望を抱いている。

 

考古学と理論ということば、哲学・思想もある程度にかじっている私には、大変に魅力的且つ、魅惑的な響きに共鳴したくなる。しかし、学部生から手をつけれる代物でもないと多くの人間は言う。そして、またあの阿子島氏の言葉の布石が…重い。

以下、理論考古学を学史的な観点を細かく理解するための文献として本書で紹介しているものをリストアップした。

 

理論考古学関連書籍

・『理論考古学の実践』安斎正人 同成社

・『理論考古学ーモノからコトへー』安斎正人 柏書房

・『考古学的思考の歴史』ブルース G・トリッガー 同成社

・『アメリカ考古学史』ウィリー.サブロフ 学生社

・『科学的説明の諸問題』カール・ヘンペル 岩波書店

・『自然科学の哲学』カール・ヘンペル

・『Working at Archaeology』

LewisR.Binford

・『Debating Archaeology』Lewis R.Binford

・『科学的思考の考古学』金森 修

・『考古学の変革者ーゴードン・チャイルドの生涯ー』サリーグリーン 岩波書店

・マシュー・ジョンソン 2017『入門 考古学の理論』

・『ゴードン・チャイルドー考古学における革命ー』ブルース・トリガー

・『認知考古学の理論と実践的研究 : 九州における縄文から弥生への社会・文化変化のプロセス』松本直子

・『理論にみる現代考古学』(Ⅳ章「対話」) ホダー.プルーセル

・『先史考古学論集』第九集

・『物質文化を読み取る』クリストファー・ティリー(先鋭なポストプロセス考古学者の論文例)

 

ポストプロセス考古学の思想を学ぶための文献

内田樹『寝ながら学べる構造主義

・フェルデナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』

高橋昌一郎『科学哲学のすすめ』

・勅使河原『日本考古学の歩み』

(「伝統的マルクス主義者」の視点からみた「正しい認識を持った人たちおよびその成果」を顕彰した学史)

 

・イアン・ホダー著

『ヨーロッパにおける考古学理論ー最近の三〇年ー』1991

『考古学における理論と実践』1992

『理論にみる現代考古学』1996

『考古学の進行過程』1999

『今日の考古理論』2001

 

引用文献(大学院生は見ておきたい考古学理論)

・ジョンソン 1999

・アッコウ 1995

・ホダー 1991

・シャンクスとティリー 1987

・シファー 1995

・スキボとフォーカーとニールセン 1995

・ティリー1994

・トーマス 1996

 

プロセス考古学の論文例

・マイケル・シファー『行動考古学』『考古記録の形成過程』

 

ポスト・プロセス考古学の論文例

・スティーヴン・マイズン『心の先史時代』

〈日本旧石器学会第17回研究発表 〉2日目パネルディスカッション

本会のテーマである「理論と実践」、主に旧石器研究に対する理論の不在を主張するものであったが、土やモノを見るセンス、個別的な遺跡研究こそが重要であると指摘する阿子島氏の言葉には、遺物から離れて思想や哲学へ浮遊し始めた最近の私の姿勢には重く受け止められ、日本の揺るぎない伝統的な考古学のあり方を体現しているように感じられた訳で…ちょっと怖かった。

あと、私の勉強不足で、溝口氏の多様する社会学系?の用語が脳ミソまで届かず、なんかすごいね!としか言いようがない状況でして、自らの無知さを肌感覚で実感させられた一日となりました。

 

簡単に諸氏の話まとめ(雑)

中尾先生→理論をなくして実践は盲目


溝口先生→理論的達成、学問の先端の認識の不在、研究史の理論的プラットフォームの不在


安斎先生→考古学ジャーナルの近藤義郎ラインに着目してきた。クラークのイコノミックベーシス→1つの方向性を持った勉強会が身につくと感じる。私の経験から言うと勉強会が1番

『現代考古学辞典 』次世代の研究領域を提示、しかし、事例研究が示されなかったことで、反響が無かった。

『理論考古学の実践』呼びかけに応じず、ニヒリズムに陥る。来年、概論書を刊行予定。

ニヒリズムから脱却できればいいな笑。

 


阿子島氏 閉会のことば←100%文字起こし(ここだけは頑張った)

 

1980年代の埋蔵文化財の保護体制と資料が充実してきた安斎先生のいう資料の蓄積期にパラダイム転換を強く主張した。80年代〜90年代になり資料が蓄積してくると、今度は旧来考えていた強固な理論考古学の方法論の枠組みの中に入れ込んでいって編年を整備する細分をする、正式編年や集団表象をその枠組みの中に入れて考えるということが、旧石器時代のみならずあらゆる時代区分の研究で実際に起きたわけであります。

鈴木さんの刃部磨製石斧の考え方や、五十嵐さんの砂川モデル、この辺の従来の方法論の中に新資料を当てはめることが続いてきたが、それを見直していくという、そういう考え方の1つなんだろうと思って意を強くしました。

また、80〜90年代の期間を科学哲学的に考えるとトーマス・クーンの言うパラダイム論の中に通常科学という考え方があります。ノーマルサイエンスですね。そう言う中ではこういう科学者集団のなかでは、こういう方法で積み上げていくといいんだという時期がある程度続くと、今度はそれに対してアノマリー、すなわち実際にその枠組みには事実としては合わないんだけれども、旧来の方法の枠組みの中にそれを取り込んで入れていこうということが起こる。そして、うまくいかなくなってくるとそのパラダイムの転換が起きるという古典的な議論。もう50年ぐらい前になりますが、そういう議論があったのであります。

文化間の問題。ビンフォードさんのいうところのノーマティブなカルチャーパラダイム、すなわち基準的な文化間というのに、かなり近い感じを受けるのであります。ビンフォードさんの60年代のニューアーケオロジーを回想した中で、このことは明記しています。ニューアーケオロジーというのは、文化パラダイムでいうと、反ノーマティブな運動で自分たちは少なくともいたのだが、そのあと大きく主流と言われる人たちは変わってしまったということを書いています。で、日本考古学の強固なパラダイムもややそういう文化間が強いと考えています。源流を辿ると『原始学序論』杉原壮介先生の原因者とか、それにおける遺物の変異性、そいういうことにまで辿られることなのかもしれません。

今度は日本考古学が今後どのように進んでいけば良いのかということでありますが、これについては、多様な考え方を寛容に受け入れて、多様性を許容する平行パラダイムで当面進んで行った方が実はいいのではないかと感じました。安斎先生が、社会生態学、構造変動論と言った新たなパラダイムを20年以上前に提唱されて、それを展開しているわけですが、そのような多様な考え方を寛容に受け入れて、それを持って事実の蓄積された内容を対照させていくべきであろうと思います。

安斎先生も自身のパーソナルヒストリーに触れましたので私も述べさせていただきますと、私自身は、ミドルレンジセオリーの追求ということに向かいました。1980年以降ことですが具体的には石器の使用痕分析、すなわち実験考古学の分野、エクスペリメンタルアーケオロジーであります。ビンフォードさんたちはミドルレンジセオリーの中でもエスノアーケオロジー、民族考古学の方に集中されて追求されたわけでございます。当時、1980年代日本の旧石器では、特に関東地方を中心に大規模な調査が繰り返され、資料の充実の一途を辿っておりました。そのような時に石器の形態の意味、石器の形が意味すること、すなわち機能研究ですね。これをしっかり考えれば何か、当時の日本考古学の進む先に突破口があるかもしれない、あるのではないかと考えたのであります。その時に丁度芹沢長介先生は東北大学の石器使用痕チームを立ち上げられて、タイミングも良かったのですが、そこで私が辿ってきたところはビンフォードさんのそう言った考古資料の事実と一般理論、ジェネラスセオリーを繋いでいくための中間の理論、すなわち考古学独自の理論であると同時にミドルレンジセオリーは方法論でもあると思います。そういった中間の方法論が非常に不足しているということを学んできたわけです。で、そもそもアメリカに渡りました時は、この蓄積されている膨大な量の報告書の山、これをですね、これをどのように今後活用していけばいいのだろうがというなんか、かなり重いことを考えてUNMに行ったということをかなり懐かしく思い出されますが、五十嵐ジャンヌさんの方で、クロアグーランの方法論のうち、動物壁画を集成した業績についてのコメントで、この構造主義というものはなかなか実証、検証し難いというコメントがございました。これは構造主義というものは本質的にそういう宿命を持っていることのようです。しかしながら、ルロア・グーランの構造論的な洞窟壁画の分析は2000を超えるような多数の事例の集成から考えられているもの、すなわち、ほかのそれに先立ついくつかの仮説と違う点は、まずルロア・グーランは目録の作成をきちんと行い、それを進めていった後に構造主義的な理解に辿り着いたというわけです。五十嵐さんと違う話をしているわけでなくて、考古学の面から見るとそういうことになるわけであります。その後のパンスバーン遺跡の非常に精密な実証的な点取り発掘などが行われ、これを機会にフランスでは進むべき方向という認識が変わったわけです。こういった中で、ルロアグーランは、一方では洞窟壁画の構造論的な解釈を行なっていたということを私には大変示唆的に思うのであります。

使用痕研究はそのように展開しまして、かなり定着しました。そして、これをミドルレンジセオリーの一つとして位置付けについつは、「グローバルに見るとそれはむしろ特殊なことではないか、世界的にはそうは思われていない」という2年ほど前の本学会の使用痕のセッションの時にも山田翔さんがグローバルな経験をもとに指摘をされました。それは確かに当たっていると思います。しかしながら、考古学全体の幼名期からメソトロジー、セオリーというまとまった理論体系の中で考えると確実に使用痕分析はミドルレンジセオリーとして位置付けて良いのであります。これは確信しております。ですから、20年以上にもわたって東北大学で学生たちにかなり熱っぽく教えて続けてきたので、そういった考えが根付いてきたと思って、貢献できたとという気になって、来年退職を迎えるわけです。

科学哲学の分野において、遺物主義ということを非常に厳しく指摘されておりますが、これはやはり考古少年育ちの研究者としては反論が強くございまして、やはり長い時間、遺物をしっかり見るという経験は考古学の本質にとって極めて重要であります。遺跡の発掘調査についても同様であります。おそらく中尾さんが指摘されたいのは、実際の経験を積んでいる時に何を目標に何のためにやっているかという理論的背景も頭に少し入れながら実際にやっていこうということの少し厳しい言い方だと受け止めました。

理論と実証ということですが、やはり理論的な立場によって解釈は変わっていくわけです。理論な立場におきまして、事実としては見つかった遺跡遺物の解釈は変わっていくわけです。

しかしながら、個別の研究、個別の分析の中にこそ理論が存在しうるのであるということを訴えて終わりたいと思います。

 


要約

・理論考古学の背景

理論的なものと実証的なものが対立するようなイメージが潜在的にあった。二者択一というような考えもないですし、純粋論ということも考古学ではありえない。


・日本考古学の場合の特徴

①理論と実証が対立的に考えられることが潜在的にあった。

②資料が充実しているために、理論ということをイメージ的に考えなくても研究を進めていくことができる。

 

結論

理論と実践の二者択一はすべきでは無い。平行して考えていくべきである。

個別の研究、個別の分析の中にこそ理論が存在しうる。